セナクイズ2 解答



問1

①ミルトン ②ネイジ ③ビビアーニ ④レオナルド

【解説】
父・ミルトンは自動車部品工場や農場等を一代で築いた実業家。母・ネイジはイタリアにルーツをもつ。 姉・ビビアーニは心理学者でセナの心の支えになっていた。ビビアーニの息子はF1でも活躍したブルーノ。 弟・レオナルドはしばしばサーキットに足を運んでいた。



問2

旗が「バンコ・ド・ブラジル」のものだったから。

【解説】
セナのパーソナルスポンサーと言えばいつも着用している帽子で有名な「バンコ・ナシオナル」(ナシオナル銀行)。 そのライバルにあたるのが「バンコ・ド・ブラジル」であった。 セナはゴール直後のコントロールライン付近でファンから小さめの旗を受け取ったが、 1コーナー(エス・ド・セナの入口)付近で旗が国旗ではなく「バンコ・ド・ブラジル」のものであることを確認し、 2コーナー(エス・ド・セナの出口)付近で豪快に旗を投げ捨て、かわりに特大のブラジル国旗を受け取ってウイニングランをした。 ちなみに数100メートル走った4コーナー手前ですぐにセナは群衆に囲まれる。セナはマシンを止めて大きくガッツポーズ! その後応援に来たセーフティカーに乗ってピットまで「箱乗り」で帰っていった。



問3

ロータス 97T ルノー

【解説】
F1参戦2年目の1985年、セナが初PP、初優勝を成し遂げたマシン。 設計は70~80年代の有名デザイナーのジェラール・ドュカルージュ。 ハンドリングが良く、セナはマクラーレン移籍後もハンドリングが良いと「It's just 97」「Just like 97」 (まさに97のようだ)と表現していた。 97Tは毎戦優勝を狙えるだけの戦闘力・信頼性はなかったが、 1200馬力近いルノーの予選用ターボエンジンとセナの腕によりPP7回と一発の速さがあった。 決勝レースでも雨のポルトガルとベルギーで2勝をあげている。



問4

フランス

【解説】
セナはデビューした84年からフランスGPに10回出走したが、一度も優勝できなかった。 84年はディジョン、85年から90年まではポールリカール、91年以降はマニ・クールで行われたが、 全サーキット合計で2位1回、3位2回、4位2回に終わっている。

この理由として、次のことが考えられる。
①ポールリカール時代はライバルであるプロストが地元で強さ・速さを発揮した
②マニ・クール時代はマクラーレンのマシン特性に合わず、ウイリアムズに有利だった
③マシントラブルやアクシデントが多かった

①に関しては、プロストはセナとチームメイトを組んだ88・89年ともに予選でもセナを上回り、 決勝レースでも安定した強さでレースを制した。
③に関しては、89年はディファレンシャルトラブル、 92年はシューマッハーと接触(横からぶつけられる)で0周リタイアを2回記録するなど運にも見放された。

サーキット別で5回以上出走して一度も優勝できなかったのは、上記のポールリカールと、 ジャカレパガ(ブラジル)。こちらは6回出走して2位1回。 最も勝ちたかったブラジルでなかなか勝てなかったが、 舞台を地元の地元サンパウロ・インテルラゴスに移してからは5戦2勝とジンクスを打ち破った。



問5

テリー・フラートン

【解説】
1993年オーストラリアGPでの記者会見で、「これまでのレースで対戦して、最も満足感を得られたドライバーは誰か?」 との記者からの質問にセナが答えた。 この模様は2010年公開の映画「アイルトン・セナ ~音速の彼方へ」で紹介され、一躍有名になった。

フラートンはセナより7歳年上で、カート時代のDAPチームのチームメイト。 1973年の世界カート選手権のチャンピオンであり、「カートキング」の異名を持つ大物。 1978~1980年の3シーズンを戦ったが、ついにフラートンを上回ることができなかった。 セナが倒せなかった唯一の相手か。

セナも最初のテスト走行からフラートンのタイムを上回るなど才能溢れる走りを見せるが、 20歳前後のセナにとって7年の年齢・経験の差は大きかったのかもしれない。 セナがその後フォーミュラレースに進むのに対して、フラートンは「カートキング」を貫いた。

*カート時代の詳細なレースのデータが乏しく、信憑性に欠ける記載になってしまいました。 各種資料を総合的にまとめましたが、間違いや解釈の違いもあるかもしれません。ご了承ください。



問6

オーストリア

【解説】
1994年サンマリノGPの事故後のセナのコックピットから、オーストリアの国旗が発見されている。

これはオーストリア出身で前日の予選2日目に事故で亡くなったローランド・ラッツェンバーガーに勝利を捧げ、 また自らを奮い立たせるためだったと思われる。 オーストリアの国旗を掲げてウイニング・ランをしようという強い決意の表れだったことが想像できる。

あれから20年。F1レースでは死亡事故は起きていない。 今日のF1の安全は2人の犠牲の上で成り立っていると言っても過言ではないだろう。

改めまして、ローランド・ラッツェンバーガーとアイルトン・セナに哀悼の意を表します。



問7

① friends ② FORMULA Shell

【解説】
80年代終盤から90年代序盤にかけて、セナは昭和シェル石油のCMに何度も出演。 今回のクイズで出題したものもそのうちの一つで、1990年に放送されていた。

CM内容は、セナがチームスタッフやファン、昭和シェル石油の社員にサインや握手をしたりして日頃のお礼をしていくというもの。 セナの決めゼリフの前には、「私を支え、私を応援してくれた人々に、心から感謝します」というナレーションが入る。 「FORMULA Shell」とは昭和シェル石油のガソリンのブランド(商品)名。

この時に流れている曲は穏やかで感動的な曲で私も大好きなのですが、曲名・歌手名ともに不明です。 この時期のその他の昭和シェル石油のボーカル楽曲を使用したCMでは歌手名が表記されているので(SHOW-YA、VOW WOW、Gota Yashiki、等)、 この曲はCM用のオリジナル曲なのかもしれません。 この曲についてご存知の方、情報をお待ちしています!



問8

ウイリアムズ、マクラーレン、ブラバム

【解説】
セナが初めてF1マシンをドライブしたのは、1983年7月19日、ドニントンにおけるウイリアムズのテスト走行だった。 セナは同時期に行われたレギュラードライバーのテストより約1秒速いタイムを叩き出した。 「ペースを掴むのが早い」とはフランク・ウイリアムズの評。

同年夏のマクラーレンのテストはシルバーストンで、 マーティン・ブランドル、ステファン・ベロフという若手有望ドライバーと共に行われた。 タイムはそれぞれ0.1秒程しか変わらなかったが、セナのマシンにはエンジンブローが発生していた。 トラブルはコントロールラインよりも前で発生していたので、正式なラップタイムにはトラブルの影響が出てしまったが、 このとき別の地点でトラブル前の丸々1周のタイムを計っていたブラバムのスタッフは、セナの本当の速さに気づいていた。

11月のF3のマカオGPの直前にはポールリカールでブラバムのテストが行われ、チームはセナに関心を寄せていた。 しかし、スポンサーの問題と、セナと同郷ですでにブラバムでチャンピオンを獲得していた ネルソン・ピケがセナの加入を拒んだとされている。

セナは新興・中堅のトールマンのテストも受けていて、12月9日に正式に1984年の契約を結んだ。 上記のトップチームはセナに関心を示したものの、各チームの諸事情で本格的にセナ獲得には動かなかった。 セナ自身も、1年目はプレッシャーのない中でF1を学びたいということと、 チームナンバーワンとしてチーム内の主導権を握りたいからトールマンを選んだと推測される。


参考:「アイルトン・セナ 天才ドライバーの素顔」、「Thank you AYRTON, Good bye SENNA」、「生涯 アイルトン・セナ」、 「アイルトン・セナ 音速の記録」、ビデオ「アイルトン・セナ・ザ・ヒストリー」、他



問9

アンドレア・デ・チェザリス

【解説】
1993年、ティレルチームの片山右京のチームメイト。 日本GP予選2日目でのタイムアタック中、セナがダンロップ・コーナーを抜けると、 前方に片山右京のマシンを借りて乗っていたチェザリスがスロー走行をしていた。 チェザリスは決して意図的に邪魔したわけではなかったが、これでセナはスロットルを緩めてラインの変更を余儀なくされた。 結局セナはPPのプロストと0.13秒差だったので、これがなければPPを奪えたかもしれない。 セナは、スロー走行をしていたのを右京だと思い、予選終了後に抗議をするために右京に詰め寄ったが、 実際はチェザリスだったと知るとそのまま帰っていった。

チェザリスは1980年にF1デビュー。1982年には当時の最年少PP記録を樹立。表彰台5回を記録するが、 2014年現在も歴代最多リタイア数、未勝利者の中での最多出走回数を誇るなど、速いがドライビングは荒く、 「クラッシュキング」「壊し屋」とも呼ばれた。 キャリア終盤は中堅チームを堅実な走りで上位入賞に導くこともしばしば見られた。 1991年ベルギーGPでは、トラブルを抱えて1位走行をしていたセナをあと一歩のところまで追いつめた。 (結局エンジンブローでリタイア)

そんな80年代~90年代を代表する個性派ドライバーで人気も高いチェザリスだったが、 先日10月5日に公道でのオートバイの事故で亡くなってしまった。 レース中の事故ではなかったが、また一人愛すべきレーサーが亡くなったのはとても残念でならない。 アンドレア・デ・チェザリス氏のご冥福をお祈りいたします。

また、奇しくもチェザリスが亡くなった日と同じ10月5日、鈴鹿で行われていたF1日本GPで、 ジュール・ビアンキがコースアウトし重機と衝撃。現在も生きるために懸命に闘っている。 ビアンキの回復を祈っています!



問10

①MP4/5B ②10 ③バットマン ④クロコダイル ⑤週刊少年ジャンプ

【解説】
1990年、マクラーレンはMP4/5B、ホンダは前年に引き続きV10エンジンを投入。 形式上では前年からの正常進化といった印象を受けるが、いくつかの新たな試みもみられた。

ホンダのV10エンジンは2年目に入り、さらなる高回転化が図られ、それに伴い信頼性も向上した。 ホンダエンジンはシーズンを通じて改良が進み、最終的にバージョン6まで発展することになる。 空力面での最大の注目はバットマン・ディフューザーである。 これは5つの半円状のトンネルを組み合わせたものだが、 マシン下部により多くの気流を流すことでダウンフォースの増大が期待された。 しかし同時にマシンの姿勢が乱れた際にダウンフォースの変化量も大きくなり、過敏になりやすいという欠点もあった。 結局、第10戦ハンガリーGP以降は通常の形状のディフューザーに戻されている。

クロコダイル・ノーズは、90年のシーズン終盤、ホンダ側の働きかけによりハイノーズ仕様のマシンが実験的にテストされた。 しかしこのノーズは当時のティレルやその後の多くのチームが採用する吊り下げ式のフロントウイングとは異なり、 コックピット開口部からフロントウイングまで真っ直線に持ち上げたものであった。 これがワニの長く伸びた口に似ていることから、クロコダイル・ノーズと名付けられた。 (マクラーレンが正式に名付けたかどうかは不明)  しかしこの形状ではコーナーのクリッピング・ポイントが見づらいという理由でセナが嫌ったため、すぐにテストは打ち切られた。 (参考:フジテレビNEXT「セナ没後20年 特別企画 今夜はアイルトン・セナを語ろう」でのホンダ・木内健雄氏の証言)

その他、様々なパーツがシーズン中に改良・開発されたこともあり、 1990年はセナとマクラーレンがダブルタイトルを獲得したが、 シャシーの基本コンセプトは旧態依然のものであり、セナの腕とホンダパワーによるところが大きかった。

新たにスポンサーになった週刊少年ジャンプは当時、巻頭カラーでセナの特集を組んだり、 特集ページ内でドラゴンボールの孫悟空がドライビングスーツ姿で応援したりと、全面的バックアップ体制だった。 (翌91年には、セナを中心とした実録マンガ「Fの閃光」が連載される)  そのスポンサー料は1億円と言われている。 ジャンプは90~91年にかけてスポンサーだったが、この2年間はともにセナがチャンピオンになるなど、 セナにとってジャンプは影の「勝利の女神」だったのかもしれない。




セナクイズ2 問題



TOPへもどる